『失ったものを数えるな、残されたものを最大限に活かせ』―パラリンピックの父と呼ばれる人の言葉だそうです。競技人生の最後にやっとそのことが理解できたと話してくれるのは、2016年リオパラリンピック水泳で8種目に出場し、2021年10月で現役引退したばかりの一ノ瀬メイさん。社会がつくっている“生きにくさ=障害”をひとつでも無くすために活動を続けておられます。
一ノ瀬メイ
Methods of Happier
世界舞台での経験で得た
豊かになるためのいくつかのこと
“無いものをねだらない”
「すべてを犠牲にして勝ち取った世界舞台で、決勝に残れなかった…。達成感をまったく感じられなかったんです。帰国して父親に話すと、それでは“一生幸せになれない”と言われたんです。もし決勝に残れたとしても、それならメダルが欲しかった!もし銅メダルを取れたとしても、銀メダルが欲しかった!って…エンドレス。 それを聞いて、無いものをねだるより、今あるものに感謝しようとマインドが生まれました。だって10年もかけて念願の舞台に立ったのに、嬉しいって思えないなんてもったいない」。
“自分を信じる”
「リオのスタート台に立ったとき、結局1人なんだと感じました。勝利を掴みとるのも、責任をとるのも全て自分。なのに外の世界ばかり気にしていて…。メディアや周りからの期待を通して映る“もうひとりの自分”との乖離が、激しい焦りとなって渦巻いていました。もっと自分に目を向けないと、いつか空っぽになる−そう感じた瞬間でした。私の場合はその後 “内省の時間”を大切にして、徐々に乖離を縮めていきました。自分と向き合い、自分を理解し、自分を許し、信じる。そうすることで肩書きが無くても自分でいられる。その一連のセラピーとも言える時間によって、引退への決心がついたような気がします。水泳を手放した自分には何も残らないのではないかという不安はいつしか小さくなっていました。まだ今でも日本記録をひとつも破られていないんで、まわりからはもったいない!という反応一色でしたけどね」。
世界舞台の大歓声の中、彼女が感じたスタート台の前後での貴重な体験。そこまで大きな舞台でなくとも、多かれ少なかれ私たちにも身に覚えがあるのではないでしょうか。良い大学を卒業して、良い企業に就職しなければならない。体型はスリムで…。自分の生きたい道や、価値の尺度とは違う「社会のノイズ」にかき乱され、自分の魂で自分の体を生きることは案外難しくなっているのかもしれません。彼女はこうも言います。「ぼーっと生きていると、他人(社会)に幸せを作り上げられちゃうんです。経済社会につくられた世間的な幸せって、あるじゃないですか。引退をもったいない!という反応もそのひとつだと言えます。だから自分と向き合わなきゃ。自分へのジャッジを他人にもしてしまっている。自分を許した分だけ、相手を許せるし、自分を理解できた深さの分だけ、他の人も理解できる」。パラリンピック出場当時は、金メダルを獲ること以外では幸せになれないと思っていた彼女ですが、今は小さな出来ごとにも感謝し、今日、自分がしたいことに素直に着目でき、個人としての幸せを見直せるようになったそうです。足るを知り、自分を認め、信じる。引退からまだ1年ちょっと、豊かに生きるためのセラピー術について、まだまだ実験中とのことでしたが、彼女が言葉にしてくれた現時点の考え方は、きっと豊かに生きるための重要なコンセプトではないでしょうか。